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紀州池田庄の春日山城(春日神社の裏山)
< 和歌山県 紀の川市 >  
 




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春日山城について         2013年 9月 7日 V01-02

☆ … 春日山城の山城 … ☆

春日山城は、和泉山脈の南面の山麓部分にあり、三峰山(576.2)を主峰とし、土仏峠を少し下った所の『紀の川市中三谷』の春日神社裏山の標高228mの小ピークを中心に二段の曲輪と、 その西下方に通称「ゴンタの城跡」と呼ばれる小テラスが不動寺谷に面して築造されていて、北面の土仏峠からの峯筋を護るために、深さ約7mの切り通しを造り防護している。 それ以外に3カ所の切り通しが存在する。
同城跡は、『太平記』や『紀伊続風土記』によれば、根来衆三百余人が立籠り、恩地・牲川三千七百余騎と対戦したところと示されている。

春日山城は、根来衆の本拠地である根来谷へ、不動寺谷から山道を通して、約2.0キロの地点に位置するところから、根来寺の東を守る砦であったろうことが考えられる山城跡である。
延文5年(1360年)の対戦に攻めてきた南朝方の恩地牲川との戦いに参戦した、岩田八郎が春日山城に立て籠もり、討死したところと云われている。
(打田町史第一巻 昭和56年発行)


春日山城跡
城は、三方に分かれた尾根の上に連続する連郭式の縄張りで、平面部分は自然地形を上手く利用している。 西側にゴンタ城を持ち、北側の守るために切通(堀切)幅4m以上もある。
前山の出城もある。

村の北春日山の頂、松林の中にあり[太平記 巻35の南方蜂起事付畠山関東下向事]の條にいふ 河内ノ國守護代杉原周防入道は、誉田の城を落て、水速の城に立籠り、爰に暫く支へて京都の左右を待たんとしけるが、 楠大勢を以て息も繼かさず責ける間、一日一夜戦ひて、南都の方へぞ落にける。 根来の衆は、かように味方の落行くをも知らず、輿力同心の兵集りて三百餘人、紀伊ノ國春日山の城に立籠り、 二引両の旗を一流打立てゝ居たりけるを、恩地・牲川・三千七百餘騎の勢にて押し寄せ、城の四方を取巻て、一人も餘さず討にけり。 又同書[紀伊國軍事]の條に恩地・牲川の勢根来の衆徒の籠りたる春日山城を攻しかは 衆徒亡ひて城に火を懸るとあり皆此城なりといふ側の山の上に岩田八郎といふ者の討死せしといひ傳ふる所あり。
(紀伊続風土記 巻之三十)

  [太平記]南方蜂起の條に云く、『根来衆は箇様に味方の落ち行くをもしらず、輿力同心の兵相集りて三百人、 紀伊國春日山の城に楯籠り、二ッ引両の旗一流打立てゝ居たりけるを、恩地・牲川三千餘騎の勢にて押しよせ、城の四方を取巻いて、一人も餘さず討ちにけり。』 八郎が峰 春日山の前、辨財天山の上にあり、岩田八郎討死の地なり。山上に碑あり。銘左にあり。 人馬谷 八郎が峰の東にあり。牲川勢を埋むといふ。
(紀伊國名所圖會の巻之一)
春日山城の等高線図
 和歌山城郭調査研究会の野田理氏より(2009.2)

春日山城の全景
                                                  2009.02.05 撮影
京奈和道路の開通(2015.09.12)のために、紀ノ川ICと岩出根来ICの間にある、
『春日山城トンネル』が、春日山城の真下に北の切通(堀切)の下近くを、通過しています。


☆ … 岩田八郎の碑 … ☆

岩田八郎の碑は、打田町措定の史跡になっていて、「岩田八郎の碑」「東三谷八郎ヵ峰」。
岩田八郎は、中三谷の出身で、根来寺西蔵院の院主であった。南北朝の動乱期には、根来寺は、北朝に味方していた。 延文5年(1360)7月の合戦には根来の軍勢三百余人は春日山城に二引両(足利氏の旗印)の旗を打ち立てて立てこもった。 そこへ攻めて来た南朝方の恩地・牲川の軍勢三千七百餘騎に城の四方を取り囲まれて、全員討死した。 その中に西蔵院院主・岩田八郎も入っていた。
(昭和60年3月・打田町教育委員会)
春日神社の第一鳥居の近くにある、岩田八郎の立札より南へ約300m先の御旅所の近くに移設し設置している。
(御旅所より南50mの所(馬谷を越えた所)で崩落・埋没していたため、2014.10.14に在所の方々の努力により
 移設した)

注)岩田八郎は、根来寺の蓮花谷ヌリヤ(塗屋)小路 西蔵院の院主と云われている。
   「二引両」は、足利家の家紋(足利将軍「室町幕府」の家紋でもある)。


室町時代(1336年 - 1573年)
その足利家の流れをくむ家が、畠山家、細川家、斯波家などとなります。


南朝方の恩地氏、贄川氏は、橋本市に存在した、相賀荘(おうがのしょう)や隅田荘(すだのしょう) の荘園があり、生地(おんじ・恩地=坂上)氏や贄川(にえがわ)氏の在地武士団が、北朝に味方した根来 衆を攻撃した。





☆ 春日山城 ☆

---------☆--------<参 考>------------------☆-----------------------
治承5年(1181. )池田の庄に城を構える。
感応元年(1350.12)春日山城 畠山国清が警固事。(打田町史 第一巻 P388)
延文5年(1360.07)春日山城全滅。(打田町史 第一巻 P391、 太平記 巻三五)
文正元年(1466.10)畠山蔵人国信が春日山城を固め。(打田町史 第一巻 P396 畠山記 巻七)


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