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春日山城跡
城は、三方に分かれた尾根の上に連続する連郭式の縄張りで、平面部分は自然地形を上手く利用している。
西側にゴンタ城を持ち、北側の守るために切通(堀切)幅4m以上もある。
前山の出城もある。
村の北春日山の頂、松林の中にあり[太平記 巻35の南方蜂起事付畠山関東下向事]の條にいふ
河内ノ國守護代杉原周防入道は、誉田の城を落て、水速の城に立籠り、爰に暫く支へて京都の左右を待たんとしけるが、
楠大勢を以て息も繼かさず責ける間、一日一夜戦ひて、南都の方へぞ落にける。
根来の衆は、かように味方の落行くをも知らず、輿力同心の兵集りて三百餘人、紀伊ノ國春日山の城に立籠り、
二引両の旗を一流打立てゝ居たりけるを、恩地・牲川・三千七百餘騎の勢にて押し寄せ、城の四方を取巻て、一人も餘さず討にけり。
又同書[紀伊國軍事]の條に恩地・牲川の勢根来の衆徒の籠りたる春日山城を攻しかは
衆徒亡ひて城に火を懸るとあり皆此城なりといふ側の山の上に岩田八郎といふ者の討死せしといひ傳ふる所あり。
(紀伊続風土記 巻之三十)
[太平記]南方蜂起の條に云く、『根来衆は箇様に味方の落ち行くをもしらず、輿力同心の兵相集りて三百人、
紀伊國春日山の城に楯籠り、二ッ引両の旗一流打立てゝ居たりけるを、恩地・牲川三千餘騎の勢にて押しよせ、城の四方を取巻いて、一人も餘さず討ちにけり。』
八郎が峰 春日山の前、辨財天山の上にあり、岩田八郎討死の地なり。山上に碑あり。銘左にあり。
人馬谷 八郎が峰の東にあり。牲川勢を埋むといふ。
(紀伊國名所圖會の巻之一)
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和歌山城郭調査研究会の野田理氏より(2009.2)
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